この、白樺を想って。
しみずです
僕の白樺が東川町の家の一部になりました。
素晴らしく思います。下図の白樺です。
そして、これ以上の木の使い方はないと自負しております。
僕は、心の底から自信をもっておすすめしてくれることに感激します。
「これ、ここで育った〇〇でさ、自然農法で体に良くて・・・」とか、「ここの海で獲れた〇〇は絶対うまい。俺が言うんだから間違いない。あはは!」
みたいな、一次産業の人特有の、なんというか、活気のある、理論よりもその人が生きてきた人生の証の味覚化、視覚化が、その商品を熱く語るからだ。
だから、そのヒトが生きて、経験したことが、染みついたできた「究極のオンリーワン」の逸品が大好きだ。
なんで?を問うより、試して実感したくなるこの感覚。
その人のこだわりに、自分の感覚が真正面からぶつかる瞬間が好きとも言える。
そしてそれは、ヒトという正解を持ちたくないという複雑な心理状況をもつ生物に対して、「この〇〇はここだ」という自身の思い出ランキングのどこかに刻まれる。
こういうのって、「食」に多い。
味覚が、しびれるから。
味覚が、直感を刺激してくれるから。
木ってどうだろう。
厳密にいうと、直接食べられる1次産業の恵みではない。
だからこそ、「この木が良い」って、消費者に伝える方法は、遠回りになる。
味覚以外の感覚。
でも木って、味覚以外でも伝わりにくい。
強いて、強いていうなら、第六感的なものだろうか。
それほど人と木の関わりは「身近で遠い」。
「この木、どこからきたのかな」
「本当に伐っていい(使っていい)木なのかな」
「伐られた山はどうなったのかな」
「ちゃんと子どもたちの仕事の場として、生きる場として、地域の誇れる自然として残されているのかな。」
って思って使っている人はどれだけいるかな。
こんな風に思う人が増えてきたら、日本の林業ってどう変わるのかな。すごい楽しみになる。つまり、その木に対してお金を支払う人の意識が変われば、きっと林業も変わる。
薪が注目されている今でも、正直、知らない人には薪を使ってほしくない。
一体どれだけ素人が”山火事”を起こしているのか。
木って育つスピードよりも、伐る使うスピードの方がはるかに速いから、今を生きる僕らは、昔の大木があった時代にうらやましがってキコリをしている。
「いいなぁ。あんなでっかい木に会ってみたいなぁ。伐ったらどんなことにできるだろう」
そう思っているけど、生きている間には決して、出会えない生物(大木)だ。
薪が燃えるたび、僕自身の薪だとしても、本当に燃やしてよかったのか、常に問いかけている。炎を見ても、素直に喜べなくなる重症化だ。
伐らない木こりを続けていくとこんな重症になるものか笑
・・・僕の木を使うことがなぜいいか。
直感ではわかりにくいと思うから、ちゃんと説明していこうと思う。
でもそれは、次回にしておく。
今日は書きすぎた。