起源の「あたりまえ」に出会う。心が整った瞬間。
しみずです。
2ヶ月ぶりのブログです。
この間も里山部は愛されてまして、多くの方たちとの森との繋がりができました。
最高ですね。ありがとうございます。
昨日まで平取町二風谷、アシリ・レラさんのチセで2泊3日、寝泊りをして、「チセを作るための伐倒」をレラさんの森で行ってきました。
僕のキコリの心得とスタイルを買っていただいたんだと思います。とても光栄です。
数回に分けて、この内容で、更新していきます。
僕は北海道でキコリをするということで、ずっと、森に入ることに、気持の点で、腑に落ちていない点があったんです。
それはアイヌに対して、どういう気持ちで森に入っていいのか。
僕の森がある突哨山はアイヌの聖地です。
里山部がある森は、彼らが生活の場としていた森だったんです。
その森に入って、こうして命を頂き、提供している側にいることの意味、森に対する敬意、向き合い方は、考えても答えが出ずにいました。
二風谷の2日間は、僕の求めていた答えに触れる機会でした。
レラさんの森の木を伐る。
その森の立木と向き合い、伐る者の役割でした。
この木を伐る。伐っていいのか。森に入った瞬間から、心がざわついていたんです。
そして、この森の木と、どうやって向き合っていいのかわからくなり、どういった感謝をしていいかもわからなくなったんです。
いつもの感謝が、あの森に入った瞬間、僕の感謝は通用しないと思ったんです。感謝だけではないと思ったんです。
森に入る前に何しに入るのか、伐る木には、誰が何のためにあなたをいただくのか、そうしたことを、語りかけながら、伐る前にカムイノミを体験しました。
森にある木、1本、1本にです。
カムイノミを通じた感想は言葉がありませんでした。感想を言葉にできるほど簡単じゃなかったんです。
でも、終わったあと、森がひらいたんです。すごい穏やかになったんです。
僕に向かって真っすぐに森が入ってきた感覚です。
心が一瞬で落ち着きました。
新しい第六感を感じることができたんです。
これから伐る木から、伐って良いタイミングを教えてくれました。木に命のタイミングを譲渡されたような感覚。許してもらえたような。
そこには、「ありがとう」とか「いただきます」とかそんな感謝の言葉じゃない。あの時、その言葉は思っても言えなかった。
感謝とは違う、新しい気持なんです。
それがなんなのか、僕は、一つの答えにたどり着きました。
それは究極の森との付き合い方の「あたりまえ」に出会ったんです。
北海道のあたりまえの起源に出会ったんです。
これだったんです。
僕に足りない、北海道の森に入るという意味。感覚。
あの時、伐る前に思ったのは、木から感覚が伝わってきて、出てきた言葉が
「・・・うん」
だったんです。
この一言しかでてこなかった。自分が木に説得されて、自分が納得いった感覚。
この感覚は初日だけでした。
森の言葉が聞けたのは、あのカムイノミをした初日だけ。
チセでアペフチカムイを前に、アイヌのお話を聞かせていただいた中川さんからは、「森だっていつも語りかけてくるわけじゃない。用がないなら言わない。それと男はなかなか感じずらい、そういう時間は一人でいる時じゃないと難しい。」と。
それと、伐る木に斧を置いてお神酒代わりに備えておく気持ちの意を表していつもやっていましたが、「伐る木に刃物を置くなど、木にとってはただの脅しだ。カムイノミをする時は刃物は絶対もっていかない」と。
北海道の森と向き合って生きていくための、
おそらくこれ以上ない、迷いのない心を会得した初日でした。
あたりまえのように森と向き合っていくそこには、感謝も、敬意も、畏怖も、命のやりとりもあってあたりまえ。
あたりまえの中に、全てがつまっていました。
身近な自然と、あたまりまえの自然は違う。
旭川は身近な自然が沢山。
でもあたりまえの自然はわずかだ。
里山部の森は、身近な自然でありつつ、あたりまえの自然でいくと、強く思った。
心が整った。
僕の提供する林産物、森の時間に様々なカムイを感じられるように、これから付き合っていく。
心技体。また一つ、本質に近づいたキコリになれたと思う。
・・・続く。
※この活動は、NPO法人ハチドリさんの、チセ作りのためのワークショップ第一弾として参加しました。実際にチセをたてるまで、連続開催しています。